ミチカラ
風景・偉人・文化
新しい文明の開化により、
薄れていく古き良き日本の伝統を
いつまでも絶やす事無く、
なにげない日常生活に残していきたいと
いう思いを込めて・・・
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日本刀の鐔
刀鐔とは・・・刀を握る手を護る為の刀装具。
本来、日本刀は武器として生まれたが
平和な時代を迎えた現代においては、身を護る為の御守りとして用いられる。
刀工集団 長船派
鎌倉時代後期から幕末まで続いた、備前国邑久郡長船(岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工の流派。
名工を多数生み出したことから、長船刀工が製作した刀は長船物として高く評価されている。
長船派には「長船四天王 」と呼ばれる名工がおり、その呼び名のとおりこの四天王の技術の位列は最上のものが多い。
【長光】長船派の創始者として知られる刀工・光忠の子。古刀最上作。
【兼光】最上大業物
【元重】中古刀上々作、最上大業物
【長義】中古刀最上作。山姥切国広のモデルとなった刀、「山姥切」を製作した。
(※1)古刀最上作・・・古刀(天慶-文保年間、938-1318年)の最上。
(※2)最上大業物・・・日本刀系列の最上級品。
(※3)中古刀上々作・・・中古刀(元応-長禄年間、1319-1461年)の上から2番目。
(※4)中古刀最上作・・・中古刀(元応-長禄年間、1319-1461年)の最上。
他にも織田信長が好んで二十数振りを集めといわれている「備前長船光忠」
伊達政宗の遺愛刀といわれている「備前長船景秀」
御物、国宝、重要文化財等多くの名刀を残した「備前長船景光」
など誰もが認める多くの名匠を生み出した。
維新三傑の一人、「桂 小五郎」が所持していたとされる刀もまた、長船派【備前長船清光(びぜんながふなきよみつ)】と伝えられている。
維新三傑の一人、桂 小五郎
秀才であり剣豪で知られている「桂 小五郎」
その腕前は、新撰組 局長 近藤勇に「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたという逸話が有る程であったといわれている。
1833年山口県萩市に萩藩医・和田家の長男として生まれる、七歳で向かいの桂家の養子となり、長州藩の武士の身分を与えられた。
1846年に剣術道場に入門し、1848年に元服後(※5)実の父に「元が武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」と説され、一層剣術の修行に励んだといわれている。
1852年には江戸に剣術修行に行き、神道無念流免許皆伝となりその名を轟かせました。
勉学も1849年から吉田松陰から兵法を学ぶ、この頃から頭がよく松下村塾で知られる吉田松陰もその才能を認める程だったといわれている。
ペリー来航をきっかけに海外知識や文化に興味を抱くようになり、海外事情に通じるにつれて日本の未来も不安を感じるようになった。
その後、長州藩内の中心的人物になり、藩内の意見を攘夷(※6)にまとめる為に努力するも、八月十八日の政変によって長州藩の権力が失墜。
そこから幕府を支持する勢力から命を狙われるようになりますが、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐などの大きな危機を乗り越えて、薩摩藩の西郷隆盛と薩長同盟を締結する。
薩長同盟締結後は長州藩の代表的人物として薩長主導による新政府の成立に尽力したといわれている。
(※5)元服・・・成人式。
(※6)攘夷・・・夷人(外国人)を攘(はら)う。外国人を実力行使で排斥しようという思想。
透かし松鐔
現在、桂小五郎が常用したとされる長船派「備前長船清光」は既存していないといわれている。
そこで、10代より文武両道を志し、日本の未来を見え透くした桂の姿と桂の恋人であり明治維新後、正妻となった「幾松」からイメージし透かし松鐔を再現しました。
台紙には、若葉色を使用し、厄除けとされる籠目模様を使用し、
台紙の裏面には桂小五郎の家紋と名、愛刀 備前長船清光の名が描かれています。
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