ミチカラ
風景・偉人・文化
新しい文明の開化により、
薄れていく古き良き日本の伝統を
いつまでも絶やす事無く、
なにげない日常生活に残していきたいと
いう思いを込めて・・・
↓↓↓ブログのバックナンバーやツイッター情報はこちらからどうぞ↓↓↓
日本刀の鐔
刀鐔とは・・・刀を握る手を護る為の刀装具。
本来、日本刀は武器として生まれたが
平和な時代を迎えた現代においては、身を護る為の御守りとして用いられる。
愛刀 安芸国佐伯荘藤原貞安(あきのくにさえきしょうふじわらのさだやす)
高杉晋作の肖像写真にも写る、愛刀 安芸国佐伯荘藤原貞安
その写真の「太く長い柄」「目貫無し」「小さな鐔」これらの特徴から薩摩拵(※1)では無いかと考えられている。
この拵の形式の根底には薩摩示現流(※2)があり、
その掟には「平常は刀を抜くべからず、止むを得ず抜刀した場合には必ず相手を倒すべし」とあることから、
薩摩拵は刀を抜かずに相手を倒すことを目的とする形状になっているといわれている。
高杉は、この刀をとても気に入り持ち主であった土佐出身の田中光顕に無心し、田中光顕を高杉の弟子にするという条件で譲り受けた。
二尺七寸(※3)と当時としては比較的長いこの刀を高杉は常に肌身離さず持ち歩いていたといわれている。
(※1)薩摩拵・・・各藩の武術、流儀に適した独特の刀。薩摩拵は、実用性を追求したため武骨な外見をしているとされる。
(※2)薩摩示現流・・・薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。
(※3)二尺七寸・・・81.81cm
長州藩の尊王攘夷志士 高杉晋作
高杉晋作はもともと武家の出身で、幼少期から木刀を腰に挿していたといわれており、その刀が遺品として残っているそうです。
吉田松陰の松下村塾に入門し「松下村塾の四天王」といわれていた。
その後、中国の清に渡った高杉は、清が欧米各国によって支配されている様子を見て「このままでは日本も同じように支配されてしまう」と考えた。
高杉は長州藩に戻ると攘夷(※5)を進め、日本を外国から守ろうと様々な行動をとります。
その一つが、武士、農民、商人等、身分の関係なく長州藩を守りたい人だけ結成した強力な軍隊「奇兵隊」
朝廷の敵となり、幕府軍に攻めこまれて敗北した長州藩でしたが、高杉晋作ひきいる「奇兵隊」は藩の実権をうばい返します。
さらに高杉は、第2次長州征伐(※6)で10万人の幕府軍を、わずか4,000人の兵士で返り討ちにし勝利します。
カリスマ性があり、後の初代内閣総理大臣で、当時は高杉晋作のもとで働いていた伊藤博文は、
高杉晋作のことを「動けば雷電の如く、 発すれば風雨の如し」と語っており、その行動力はとても凄かったといわれている。
(※4)明倫館・・・長州藩の藩校
(※5)攘夷・・・夷人(外国人)を攘(はら)う。外国人を実力行使で排斥しようという思想。
(※6)長州征伐・・・2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国へ向け征討の兵を出した事件を指す。
薩摩拵鐔(奇兵隊鐔)
現在、高杉晋作が常用した「安芸国佐伯荘藤原貞安」は既存していないといわれている。
そこで、安芸国佐伯荘藤原貞安の見た目から
刀を無闇に抜かない為に鞘止とよばれる小穴が開けられていて、この穴に針金や紐を通し鞘に固定していたとされる「薩摩拵鐔」
また、穴に紐を通して手首を結び、刀が手から離れない様にして作られたとされる「奇兵隊鐔」
この二つのイメージから鐔を再現しました。
台紙の裏面には高杉晋作の家紋と名、愛刀 安芸国佐伯荘藤原貞安の名
そして、高杉が愛した三味線が描かれています。
商品の詳細をお求めの方はこちらからどうぞ